【アジア大会で輝いた東京勢②】福部真子 44年ぶりの女子100mH日本選手金メダルは「神様がくれたご褒美」

 アジア大会の陸上競技が9月23~29日、名古屋市のパロマ瑞穂スタジアムをメイン会場に行われた。27日の女子100mHでは前日本記録(12秒69)保持者の福部真子(日本建設工業)が、12秒74(-0.2)で日本勢44年ぶりの金メダルを獲得。また今年日本記録(12秒60)を出している中島ひとみ(長谷川体育施設)も12秒78で銀メダルを獲得し、これも44年ぶりの日本勢ワンツーフィニッシュを達成した。福部はレース後、アジア大会を最後に引退する覚悟だったことを明かした。

●「自分が取ってきたメダルの中で一番価値がある」

 福部はレース直後から感極まっていた。テレビインタビューでは「人生最後のレースだと思っていたので、神様がご褒美をくれたのかな」とコメント。ペン記者エリアでは心情を次のように話した。

「本当に取れると思っていなかった(金)メダルだったので、今も実感が湧かないのが正直なところです。スタートラインに立てるかどうか、というところでやってきましたし、1人では絶対に取れなかったメダルの色です。今まで自分が取ってきたメダルの中で、一番価値のある金メダルでした」

 レース内容も素晴らしかったのだが、福部が感傷的だったのは進退を考えながら臨んだ大会だったからだ。

「アジア大会で引退も考えていたので、自分の集大成として、しっかり走れたら結果もついてくる、と思うようにしていました。自分が今まで、中学からしっかりやってきた勝負強さというところを、最大限引き出して終わろう。そう思ってレースをしたことが今回の結果につながったのかもしれません」

 福部がアジア大会の金メダル後に話したことを理解するには、彼女の競技生活を振り返る必要がある。

●22年から復活した福部の勝負強さ

 今年で31歳になる福部は、中学、高校と世代トップを走り続けた。全日本中学選手権は四種競技で優勝し、ジュニアオリンピックは100mYHで優勝。インターハイの100mHは3連覇した。

 しかし大学では一度も日本インカレに勝つことができず、日本建設工業に入った後も日本選手権は6位が最高成績という状態が続いた。もちろん代表には届かない。その間に女子100mHは、19年に寺田明日香が日本人初の12秒台を出したことをきっかけに、徐々にレベルが高くなっていた。

 しかし福部も、22年に急上昇に転じた。6月の日本選手権で初優勝すると、2週間後の布勢スプリントで12秒93(+1.7)をマーク。日本人3人目の12秒台ハードラーになった。7月のオレゴン世界陸上では12秒96(+0.5)で予選を通過すると、準決勝1組では8位だったが12秒82(+0.9)の日本新で走り、大舞台での強さを国際試合でも発揮した。

 9月には日本記録を12秒73(+1.1)に縮めている。躍進の背景には尾崎雄祐コーチ(広島大)との出会いや、12秒台の先輩である寺田や青木益未(七十七銀行)の助言が大きかったという。

 23年は12秒台選手が6人に増え、福部は標準記録突破者ながら日本選手権4位でブダペスト世界陸上代表を逃してしまう。しかし24年は日本選手権で2度目の優勝を飾り、パリ五輪代表入り。7月には12秒69(+1.2)と自身3度目の日本記録をマークした。

 中学、高校での全国タイトル獲得や、出場した五輪&世界陸上3大会全てで準決勝に進出するなど、大舞台で強さを発揮してきたのが福部という選手である。

●予選と決勝を異なるスパイクで走った福部

 その勝負強さを、集大成と考えていたアジア大会で発揮した。具体的には、予選と決勝で性質の異なるスパイクを履きこなした点に、それが表れていた。

「予選は中・長距離用のスパイクを使いました。反発の強い短距離用のスパイクよりしっかり踏めます。自分的には予選ではリズムを作っていく走りができて、気持ちがよかったんです」

 予選は1組で12秒85(±0)の1位通過をしていた。2位の台湾選手には0.23秒の大差をつけた。2組は中島が12秒85(-0.4)で1位通過。予選と同じ中・長距離用のスパイクで決勝を走っても、メダルは確実に取れただろう。しかし福部は集大成として「勝負強さというところを、最大限引き出して終わろう」と考え、短距離用のスパイクを履くことを決めた。

「短距離のスパイクは自分の感覚よりも反発が早く返ってくるので、そこに自分が意識を、どれだけ途切れずに持っていけるかが1つポイントだと思っていました。そこにしっかり集中してレースを展開できたのがよかったですね」

 アジア大会という大舞台でそれをやってのける福部の集中力、勝負強さが金メダルという“ご褒美”になった。

●「目標を下げて続けられるのか」

 引退を考えて臨んだのは、菊池病と自身の目標の折り合いが難しいからだ。

 福部は24年9月の全日本実業団陸上の際に、「アジア記録(12秒44)を目指す」と明言していた。自己記録との差は0.25秒で、簡単に縮められる差ではないが、福部はその記録だけを目指すと言い切った。

「現役をやれてあと4年と思っているので、(代表として出場するだけなど)楽な目標にするのだったら、やらなくてもよくないですか。30歳手前で現役を続けて険しい道を行かないのなら、引退して第2の人生を始めた方がいい」

 強烈な決意表明だった。

 だがその年から菊池病を発症してしまう。高熱が出るわけでも、風邪の症状が出るわけでもないが、37度台の熱が出て練習をすることができない。練習が継続できない期間が何度も生じ、長期的なトレーニングを積むことができなくなった。

「アジア記録に対してこの2年間、そこに向かって進めていない事実を毎日のように突きつけられてきました。今やれているのは12秒8台や、12秒7台が出せる範囲の練習です。目標を下げれば続けられるんですが、目標を下げて人生をかけられるかというと、かけられない部分もあります」

 寺田や青木からは引退をとどまるようアドバイスされていて、福部本人もまだ最終決定はしていない。菊池病がはた目には「怠け者のように思われたりする」こともあり、福部が活躍することで認知度が高まれば、それだけでも続ける意味はある。

「来年1年休養して、ロサンゼルス五輪に絞っていくやり方もあるんじゃないか、と(サポートしてくれる人たちから)言っていただいたりしています」

 陸上競技関係者としては続けてほしい思いもあるが、我々にできるのは、ここまで陸上界に貢献してくれた福部の決断を見守ることだけだろう。

【執筆者】 : 寺田辰朗         寺田的陸上競技WEB