中島が男子400m6位で34年ぶりの入賞。91年東京世界陸上7位の高野を上回ったレース内容とは?
東京2025世界陸上が9月13~21日、国立競技場を中心に開催された。東京陸協登録選手では藤井菜々子(エディオン)が女子20km競歩で銅メダルを獲得。村竹ラシッド(JAL)が男子110mHで5位、中島佑気ジョセフ(富士通)が男子400mで6位、廣中璃梨佳(JP日本郵政グループ)も女子10000mで6位、男子20kmWで吉川絢斗(サンベルクス)が7位に入賞した。3走を桐生祥秀(日本生命)、4走を鵜澤飛羽(JAL)が担った男子4×100mRで日本チームが6位に入賞した。入賞者の中から予選で44秒44の日本新をマークし、91年東京世界陸上の高野進以来の男子400m入賞を達成した中島を紹介する。走りのどんな部分が高野を超えていたのだろうか。
■終盤の強さで決勝進出を決めた中島
34年間誰もできなかった男子400mの決勝進出。それをし遂げた要因の1つに、中島は「自分のスタイルに徹した」ことを準決勝のレース後に挙げた。
「予選を良い形で走ることができて、自信を確立できました。準決勝になると一か八か、かなり(オーバーペース覚悟で)突っ込んでくる選手がいることも想定していました。それに惑わされず、自分の感覚を信じて、最後100m、150mで勝負していこうと考えていたんです。そのプラン通りに走れたことがよかったと思います」
予選と準決勝の通過タイムを比較すると100mが11秒20と11秒23、200mは21秒52と21秒65、300mが32秒69と32秒77、そして400mが44秒44と44秒53。タイムは風の影響を受けるので単純比較はできないが、ほぼ同じペースでレースを展開した。また予選の200m時点では5位、300m時点では4位だったが、最後は2位に上がって危なげなく通過した。後半型の走りをしているのは明確だ。
準決勝は他の選手が前半を速く入ったこともあり、300m時点では7位。そこから5人を抜いて2位でフィニッシュした。特徴であるレース終盤の強さを発揮して、悲願の決勝進出を達成した。
中島の準決勝の走りには、高野の確立した400mを引き継いだ部分と、それを上回った部分があった。
■前半を速く入ることでファイナリストを達成した高野
高野は27歳で臨んだ88年ソウル五輪を集大成と位置付け、日本人初の44秒台となる44秒90を準決勝でマークしたが、それでも決勝進出ができなかった。ソウル五輪の200m通過は21秒98で、後半200mは22秒92。後半をマイナス1秒にとどめるイーブンペースで勝負していたが、前半から飛ばす外国勢を最後で追い上げても決勝に進めなかった。
高野は翌89年は100m、90年は200mに専念してスピードを強化。90年はアジア大会200mでも優勝した。そして91年に400mに復帰すると、日本選手権で44秒78の日本新をマーク。200m通過は21秒3までスピードアップしていた。その後は日本でも前半を21秒台半ばで通過する選手が増え、4×400mRの前半を速く入るようになった近年は、21秒前半で通過する選手も現れ始めた。
また当時、世界陸上の短距離種目で決勝に進んだ選手はいなかった。“ファイナリスト”という言葉を広め、世界大会の決勝で戦うことの価値を世間に広めたことも高野の功績だった。
しかしその後、45秒0台、45秒秒1台を出す選手は増えたが、44秒台を出す選手は現れなかった。それだけ高野は突出した存在だった。23年ブダペスト世界陸上予選でようやく、佐藤拳太郎(富士通)が44秒77と、日本人2人目の44秒台をマークし高野の日本記録を0.01秒更新した。32年の年月がかかっていた。
ブダペストで準決勝まで進出した中島も、45秒04と当時の自己新を出したが決勝に進めなかった。そのレースの中島の200m通過は21秒56だった。もともと終盤の強さが特徴だが、当時の中島は前半を速く入ることを意識していた。
しかしその走りでは最後の100mで12秒以上かかり、準決勝を勝ち抜けない。今季の中島は前半が少し遅くなっても力を使わないことを優先し、最後の100mで勝負できる走りを目指した。それでも東京世界陸上予選の前半200mは、ブダペストとほぼ同じ通過タイムである。つまり後半に余力を残す前半の走りをしても、以前と同じスピードを出せた。その走りが、中島の準決勝突破を可能にしたのである。
■“東京世界陸上”の準決勝に現れた2人の走りの違い
高野の91年東京世界陸上準決勝は、前半を21秒0と自身の日本記録時より0.3秒速く入ってしまった。200mはトップで通過したが、残り150mを切ってから2人に抜かれ3位でフィニッシュした。あと0.12秒落ちていたら、決勝に届かなかった。
当時の記事で高野は「あんな応援には慣れていないので、つい力が入ってしまいました。今日の200mは速いというより、浮いていた。平常心を失っていましたね。ラストであれだけ止まったのは初めてです」(陸上競技マガジン1991年10月号)とコメントしている。
それに対して中島は冷静に自身のやりたい走りを貫き、最後の100mで順位を上げている。高野は世界に挑む過程で後半型から前半型に、走りを変える必要があった。それに対して中島は、前半を速く入るのが当たり前の状況で日本トップレベルに成長し、本来の後半型に戻している。その違いが2人の“東京世界陸上の準決勝”に現れた。
決勝の通過タイムを見ても、高野が後半で大きくペースダウンしたのに対し、中島は予選、準決勝と変わらず最後に順位を上げている。200m通過は高野の21秒41に対し中島は21秒68、フィニッシュが高野45秒39、中島44秒62である。ただ34年前はラウンドが1次予選・2次予選・準決勝・決勝で、現在より1本多かった。日程も準決勝まで3日連続で走り、中1日で決勝というスケジュール。予選・準決勝・決勝と全て中1日で行われた今回よりはるかにハードだった。
時代の違いや高野の功績は、中島も十二分にわかっている。高野の7位を上回った感想を問われ、次のように答えた。
「感慨深いですね。高野先生は僕にとって英雄ですし、日本の400mを切り拓いてきた偉大な先人です。僕が絶対に超える気持ちを常に持って来て、今回34年前に高野先生が残された決勝進出に並ぶ絶好の機会をいただけて、そのチャンスをものにできたことは本当に嬉しいです。高野先生がSNSで『ジョセフありがとう』と言ってくださっていたことも、400mをより活気のある種目にするための一歩を踏み出せたと、僕が勝手に先生の言葉を感じているんですが、ほんと嬉しかったです」
中島は決勝のレース後に、次のような言葉も話している。
「ようやく夢に見てきた決勝という舞台を、それも国立競技場で、地元東京で走ることができて幸せだったのですが、それよりも先に悔しいっていう感情がレース後に出てきました。最後、なんとか追いついて6位でしたが、やはり力足らずで、やっぱりメダル取りたかったですね」
高野の口から出てこなかったメダルという言葉を、中島がレース直後に発していた。高野の快挙から34年。同じ東京の地で、男子400mがレベルアップしたことを中島が実証した。
【執筆者】 : 寺田辰朗 【執筆者のWEBサイト】 : 寺田的陸上競技WEB
